キネマ
キネマ (kinema) は映画を意味するキネマトグラフの略。戦前の日本では、映画は「キネマ(kinema)」とも呼ばれた。当時から続く映画雑誌(『キネマ旬報』(キネマ旬報社)など)にこの名前が残っている他、懐古的な情緒が好まれる時にも用いられる。
ギリシャ語のkinematos(動き)に由来。また、忌み言葉でシネマの「シネ」が「死ね」を連想するためとも言われている。第二次世界大戦前の日本では、映画のことを「活動写真」あるいは「活動」と呼ぶのが一般的であったが、次第に「キネマ」、「シネマ」とも呼ばれるようになった。
「キネマ」は大正時代から使われており「キネマ・レコード」「キネマ旬報」など大正以降に創刊された映画関連雑誌の誌名や、「松竹キネマ(1920年設立)」という社名にも使われている。昭和になった頃から「シネマ」という言葉も使われ、映画『東京行進曲』(1929年)中で歌われた「東京行進曲」でも4番の歌詞に使われている。今日では一般に「キネマ」という言葉はレトロ(懐古)趣味から使われる。
活動写真
活動写真(かつどうしゃしん)は明治・大正期における映画の呼称。元来は幻灯機のことを指す。後に意味が変じて、映画を指すようになった。
単に活動とも。自動幻画、活動大写真、自動写真という呼称もあった。映画という名称が広く使われるようになるのは昭和になってからである。1896年(明治29年)11月17日、神戸市の高橋新治が輸入した「キネトスコープ」(当時はニーテスコップと呼ばれた)の映像を、滞在中の小松宮彰仁親王に見せたことが、11月19日付の「神戸又新日報」の記事になった。
当初は活動写真ではなく、「写真活動機械」と呼ばれたことが分かる。同じ頃、フランスに渡っていた稲畑勝太郎は同窓生であったオーギュスト・リュミエールから2台の「シネマトグラフ」を購入していた。
また、この年、荒木和一が「ヴァイタスコープ」(キネトスコープの改良型。スクリーン投射可能)を輸入し、その機械に「活動写真」と命名したと言われる。